「月の卵」1章   粕谷知世


むかし、この星は二つに分かれていました。
現在のブラジルより東はポルトガルのもの、西はスペインのもの。一四九四年に、スペインとポルトガルの王さまがお決めになったことです。
そんなことになっているとはつゆ知らず、南米大陸では、太陽の子孫を名乗る王さまが先祖から伝えられた土地を治めていました。
ペルー、ボリビアを中心に栄えたこの国は、今ではインカ帝国と呼ばれています。
インカの都クスコには太陽の乙女の館(アクリャワシ)という建物がありました。ここでは、家柄や容姿によって選ばれた女の子たちが、日の神さまに仕え、王さまやお后さまのお召し物を織って暮らしていました。太陽の花嫁とされた彼女らは幼くして入館すると、処女を守るために外部との面会を一切許されず、死ぬまで、いいえ、死後、木乃伊(ミイラ)となってからも外へは出られませんでした。
彼女たちの静かな生活は、一五三三年十一月、フランシスコ・ピサロ率いるスペイン人征服者のクスコ進軍によって破られました。この時代の人々の常として、征服者たちは略奪と強姦を戦勝者の特権と考えていました。そしてまた、クスコには、すでにインカ王アタワルパを殺していたピサロたちに逆らえる者など一人もいなかったのです。


1 日没前


二の母君(ママコーナ)からたっぷりのお小言をいただいていた卵(ロント)が年少の部のみんなのところへ戻ってきたのは暮れ近く、糸紡ぎの時間のことでした。
「どんなだった?」
「怖くなかった?」
みんなは糸巻き棒を放り出し、ロントに駆け寄って口々に話をせがみました。ロントは大きな瞳をいたずらっぽく輝かせながら、おさげをかけた耳の後ろに右手をあてました。
「みなさん、何かお忘れじゃありません?」
年少の部の少女たちは溜め息をつきながら、約束どおり、最近見た吉夢をロントの耳に囁きました。普通の女の子なら、手編みのコカ袋や腰帯を賭けたでしょうが、太陽の乙女(アクリャ)である彼女たちには、自分のものといえるのは夜の夢だけだったのです。
「月(キヤ)は聞かないの?」
ロントが声をかけると、部屋の隅でひとり黙々と糸を紡ぎ続けていたキヤは、微笑みながら顔をあげて首を振りました。
「ロント、あんな子、ほっときなさいよ。お高くとまってるんだから」
小太鼓(ティンヤ)に言われて、ロントは少し迷いましたが、みんなからも「早く聞かせてよ」と急かされて、二の母君からお目玉をくうに至った顛末を語り始めました。
このころ、年少の部では賭けがはやっていました。初めのうちは朝夕の食事の中身といった他愛もないものが賭けの対象だったのですが、近頃では母君がたの目を盗んで何ができるかの競争にまで発展していました。
ロントが「おぞましきもの」の声を盗み聞きしてくる、と宣言した時には、そんなことができるはずないと、みんなが笑ったものでした。もしできなかったら、月の一巡りの間、みんなの言うことを何でもきくとまで言い切ったロントに、誰もが、いちばん上等な夢を賭けたのです。
お昼前、歴史の講義の時間に、ロントは「用を足しに行ってまいります」と席を立ちました。講師の二の母君は、珍しくぼんやりと考えごとにふけっていらして、ロントの離席をあっけなくお許しになりました。
太陽の乙女の館は南北に走る細い通路によって東西に区切られていました。入り口は南に一つあるきり、館への出入りを禁じられている「おぞましきもの」は、この入り口の前へ乙女たちの食糧を運び込み、そして、乙女たちのつくる織物を運び出しています。北の方に住まうロントが「おぞましきもの」の声を聞こうと思えば、身を隠すところのない、まっすぐな長い通路を通っていくほかありませんでした。
この日、北の戸口番には四の母君があたっていました。この母君はあまりにそそっかしいので、二の母君から叱られてばかりいる方です。北の方と通路を隔てる大きな石の戸蓋の前で、ロントが「二の母君がお呼びです」と申し上げると、四の母君は大慌てで学びの間へと駆けていかれました。ロントは石の戸蓋に肩をあてがって体重をかけました。石戸は軋みながらゆっくり開きました。
南の入り口へまっすぐにのびる通路の両脇は、上部に黄金板をはめ込んだ石壁でふさがれていました。左右の石壁には戸口が幾つも空いていて、布地や糸玉、甕や壺を抱えた大勢の端女たちが奥の作業所から出てきてはせかせかと通路を横切っています。
ロントは胸を張って前へ進みました。端女たちは太陽の乙女が大切な御用でお通りなのだと思ったらしく、ロントが南の入り口へたどりつくまで、皆が道を譲り、頭を下げていました。
こうして、ロントは入り口の通話孔へ右耳をあてるのに成功したのでした。直後に、二の母君に左耳をひっぱられ、えんえんと日暮れ近くまでお説教されるはめにはなりましたが。
「それで、それで? 『おぞましきもの』は何て言ったの?」
「それがね、よく聞こえなかったの」
皆はなあんだと言いました。
「なによ。何を喋ったかは分からなかったけど、声はちゃんと聞こえたんだからね」
ロントは声をひそめ、ちらりと監督台に目をやりました。監督役の一の母君は、少女たちのお喋りをよそに居眠りをしていました。お年ですから、無理もありません。
「みんな、お母さまの声っておぼえてる?」
「おぼえてるも何も、毎日、聞いてるでしょ」
「館のお母さまがたじゃなくて、おなかを痛めて産んで下さった本物のお母さまのこと」
「そんな話、蒸し返さない方がいいわよ」
ティンヤに指摘されて、ロントは内心しまったと思いながら、まだ館に来て間もない年下の子供たちを見返しました。案の定、小さな子たちは「本物のお母さま」と聞いただけで泣き出しそうになっていました。この夜はきっと、あちらこちらの毛布の下から啜り泣きが聞こえてくるでしょう。だからといって、話を途中でやめるわけにはいきません。
「ねえ、それじゃ、このなかで誰か、お父さまの声をおぼえてる子はいる?」
 ロントはこのとき十四歳、まもなく月のものが始まるという年で、館ではすでに六年の年月を送っていました。幼い子たちとは逆に、お母さまといえば、館の大先輩である母君がたのことしか思い浮かばなくなっています。お父さまについての記憶も怪しいものでした。
「お父さまは、わたしをお膝に乗せておっしゃったの。『いい子だね。おまえはお月さまになるんだよ』って。わたしが『お月さま?』って訊くと『そうだよ、お日さまの花嫁になるんだ』って」
この六月に館へ入ったばかりの花(インギル)が鼻を啜りながら、ロントに答えました。「お父さまの声って、すっごく低かった?」
小さなインギルには質問の意味がよく分からないようでした。
「あのね、『おぞましきもの』の声は、むかし聞いた、家のお父さまの声に似てたの」
「へえ、じゃあ、ロントのお父さまが『おぞましきもの』なんだ」
つっかかってきたのは、またしてもティンヤでした。
「まさか。ちがうわよ。ただ『おぞましきもの』の声は地響きみたいだったの。ひさしぶりに低い声を聞いたな、と、そう思ったものだから」
「なによ。あんなに騒いでおいて、そんなことしか分からなかったの?」
ロントは思わずティンヤを突き飛ばしてしまいました。ティンヤは胸を押さえて床にうずくまり、半泣きになってロントを睨みました。
「痛いじゃない」
「ちょっと小突いただけでしょ。大袈裟ね」
ティンヤに言い返しながら、ロントは両の掌をこすりあわせました。ティンヤの胸が、生乾きのリャマの糞のようにふかふかほやほやしていたからです。
「皆さん、この騒ぎは何ごとですか」
糸紡ぎの間へ厳しい顔をお見せになったのは二の母君でした。
二の母君に揺り起こされて、一の母君はきょろきょろとあたりを見回されました。笑い出した少女たちへ、二の母君はいっそう顔をしかめておっしゃいました。
「今夕の拝礼には、大母君から皆さんに大事なお話があります。身支度ができたら、落日の間へいらっしゃい。それから、ロント、言うまでもないことですが、あなた、明日は朝食抜きですよ」


 2 日没
 3 日没後


初出:「小説新潮」2001年12月号(新潮社)
画像は渡邊信綱氏による「月の卵」扉絵です。

付記 :「クロニカ 太陽と死者の記録」で日本ファンタジーノベル大賞を受賞後、応募作品への加筆訂正の後に書いた短篇の冒頭部。「クロニカ」刊行前に発売された「小説新潮」に掲載されたものです。「クロニカ」が男性キャラクターの多い話だったので、インカの女性が活躍する話を、と思って書きました。「クロニカ」再刊の機会があった時にはこれも一緒に収録したいな、と思っています。

付記2
惑星と口笛ブックスの電子書籍『クロニカ 太陽と死者の記録』に収録されました。
Kindle版 はこちら。

クロニカ 太陽と死者の記録

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