魔法少女まどか☆マギカ

シスターフッド賞の同時受賞作として名前を知って、講評などから面白そうな作品だな、と思っていました。そうしたら、「願いをかなえる」をテーマにした「NOVA8」の短篇の感想のなかに、この作品と比較するものがあって、やっぱり観なくちゃ、と思っていた矢先、斉藤直子さんからも勧められて、観ました「魔法少女まどか☆マギカ」。
面白かったです。何度も繰り返し観てしまいました。魔女空間の映像も美しいし、音楽も力強く、キャラクターもみんなが魅力的。昔、憧れた「幻魔大戦」シリーズのヒロイン・ムーンライトを彷彿とさせる、健気なほむらには涙ものでしたが、なにより凄いと思ったのは、主人公まどかと、まどかが選んだ願いの内容です。
(以下、がっつりネタバレしています)

まどかの凄さは何段階にも分けられる。
まずは、魔法少女になってしまえば、肉体はゾンビ同然、結末は死か魔女化、それとも恐怖に震えながら孤独に戦い続けるか、まったくの袋小路しかない、それをすべて分かったうえで、あえて魔法少女になろうと決意するところが凄い。時間までさかのぼって、なおかつ結末を変えられずにいる、ほむらの苦しみを知ったうえでの決断なのだから、その勇気は大変なものだ。そして、そんなアンフェアなルールなら、ルールのほうを変えてしまえ、と思いつくところがまた凄い。
でも、それだけなら、現実の歴史にも創作物でも、これまでにだって例はあった。まどかのさらに凄いところは、そのルールの変え方だ。人間は追い詰められたら、ぜんぶを壊してしまいたくなる。たとえば、ほむらは絶望的な敗北の後で「もう世界なんて二人でめちゃくちゃに壊しちゃおうか」とまどかを誘う。ちゃぶ台ひっくりかえして暴れる快感って確かにある。でも、日常と家族を愛するまどかはそれを選ばない。嵐のなかの体育館で、何を変えて、何を変えるべきでないかを考え尽くす。
わたしが呑気な傍観者の立場から思いついたのは、魔法少女システムをなくしてしまえばいいってことだった。というか、最初に最終回を観たときは、それがまどかの選択だったと錯覚した。魔法少女がいなくなった代わりに魔獣と戦う戦士の世界が現れたのだと、ごく単純に。そのせいで、さやかと二人で上条くんのバイオリンを聴くシーンの凄みが、今ひとつ、分かっていなかった。  
まどかは言う。「さやかちゃん、ごめん」
さやかは答える。「これでいいよ。あたしはただ、もう一度、あいつの演奏が聴きたかっただけなんだ」
なぜ、まどかは謝ったのか。なぜなら、まどかは望むことは何でもかなえられる立場にありながら、さやかをあえて死から救わなかったから。魔法少女システムそのものをなくしてしまえば、さやかは魔法少女にはならず、死ななくてすんだ。だけど、その世界では上条くんはもう二度とバイオリンを弾くことはできない。だから、まどかは魔法少女システム全体ではなく、魔女だけを消すことを望んだ。
友人たちを助けたいと真摯に願い続けたまどかが、最後の最後に、その自分自身の望みではなく、友人たち、そして過去の魔法少女たちみんなの望みを生かすほうを望んだわけだ。一時の衝動からではなく、熟慮の末、覚悟を決めたうえで。
命よりも望みのほうを優先する。それが良いか悪いかは議論の余地があるだろう。十四歳の女の子の思い込みの激しさと言ってしまうこともできるだろう。
だけど。かつて、命と引き替えに望みをかなえた人はいたし、自分の命を投げ出して他人の命を救った人もいた。自分の望みよりも他人の望みを生かす人だっている。だけど、自らの命と魂を賭けて、他の人の望みを救った人っていたんだろうか。そんなことを望むなんて、それって、人間業だろうか。
今は、一人の少女が人間の限界を超える瞬間を目撃してしまったんじゃないかと、そう思っている。


この結論にたどりつき、それを説得力のある素晴らしい形で表現することに成功した「魔法少女まどか☆マギカ」の制作者の方々に心から敬意を表します。

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